2012年2月12日 (日)

ジジガの食料事情:なんとパスタ、そして手使い

スパゲティーとラクダのお肉とスープ。何とここではスパゲティーが主食のひとつ。これは、20世紀にイタリアが支配した名残だ。ローカルな食堂でキッチンからスパゲティーが湯気をあげて出てきたのにはびっくりした。トマトソースのスパゲティーもある(お味はちょっと違うが)。まさかここでパスタにお目にかかるとは。。。それも、ソマリ人は長いスパゲティーを手を使って上手に食べる。「スパゲティーと手使い」、人生で初めてお目にかかる光景であった。

2012年2月 6日 (月)

アフリカの“麻薬”チャットを試す

ジジガの市場でおもしろいものを見つけた。長い枝にについた緑の葉っぱ。「Khat」と現地では呼んでいる。枝ごと売っている。葉っぱをもぎとって、口に入れ、噛む、そうすると、体が熱くなり、エネルギーが出て、覚醒する、と一緒に行動していた現地スタッフが説明してくれた。そしてやめられなくなるのだという。「それって、ドラッグじゃない」と私は言う。スタッフは笑う。多くの人、特に男性がこれをやっているらしい。そして一束100バルとかなりの値段がする。

話を聞くと、どうやら、この町が小さい砂漠の町である割に発展しているのは、このチャットの生産に負うところが大きいらしい。ジジガはチャットの一大産地で、ここから空輸でなんとアラブ諸国やヨーロッパにまで輸出されているとのこと。だから、こんな僻地なのにもかからわず、どんどんと道路が建設されたりしているのか、と思う。また、この町にはこのチャット生産で億万長者になった有名な女性もいる、とのこと。ちなみに、スイスでは数年前にチャットの輸入は禁止されたと、現地でであったスイスの政府関係者の男性が教えてくれた。後で調べてみると、これは有名な麻薬らしく、欧州の多くの国で禁止となっている。

現地スタッフが笑いながら試してみたらと勧める。ちょっとためらったが、何しろ好奇心には勝てない私。でも小心者なので、葉っぱを5つ口に入れてみた。かんでみる。ちょっと苦い。そしてかみ続けると、なるほどすこーしぽっとしてくる。水で飲み込む。なるほどね。

おかしかったのは、きよりがチャットをやった、という話が20人ほどの小さなオフィスに広まり、次の日オフィスでスタッフで会うたびに、誰もがからかいの笑みを浮かべながら「やったんだって?「昨日の夜、眠れなかったでしょ?」など言われたことだ。

どの社会にも麻薬は存在し、麻薬はいつも割高で、それで 儲ける人がいる。そして麻薬は必ずこのような発展途上国で栽培される。アフガンのオピウムを思い出した。

ソマリア国境へ―ドキドキ

Jijigaはソマリアとの国境から60キロのところにある。ソマリアとの国境見てみたいか、と聞いて、すぐさま「もちろん」といった。ソマリア、と聞いて胸の鼓動が高まった。どんな感じなのだろう。さごかし物々しい感じなのではないか、恐ろしいのかしら。。難民キャンプに行った帰りに連れて行ってくれた。行ってみると、何のことはない。「国境」と聞いて、アメリカとメキシコの間にあるフェンスをなんとなく想像していたのだが、ここにはその意味での国境はなかった。単なる更地に道路。その道路に紐がかかっていて、それを上げ下げして人々を通している。多くの人が行き来している。私はパスポートを持っていなかったので、ソマリア側にはいけなかった。

アディスのタクシードライバー:厳しい現実

ここアディスでは、セキュリティーの観点から移動はほとんどが国連車である(自家用車を持っているスタッフは自分の車)。しかし、さすがにプライベート用となるとためらわれるので、現地のタクシーを使うことになる。車体はブルーに白で見るからに古い。なんでもロシアの車で、おそらく4050年ほど前のもののようだ。(さすが、もと社会主義体制の国。。そういえば、昔訪れたキューバでもロシア製の車だった。)

流しはちょっと危険なので、同僚が使っているタクシードライバーを携帯で呼ぶ。仕事が終わり、体がごちごちになっていたので、同僚のイタリア人に紹介されたスパに行った帰り。家族のことなどを聞く。すると、自分の身の上を語り始めた。「life is very difficult」という。物価は上がり続け、47歳という彼は、奥さんと3歳の娘さん、両親と妹を一人で支えているのだという。「朝5時から夜遅くまで毎日ずっと働いている。お休みなんてないです。睡眠時間は多くて5時間。」「でも、月に5000バール(約3万円)にしかならない。家賃は2500バール。これは我々ローカルにとってはとっても高いんだ。妹の学費もある。後には何にも残らない」。

私は駐在外国人と富裕層向けのスパで1時間マッサージをし、250バール払ったばかり。この格差。本当に申し訳ない気がした。「でも幸せ。自分は健康だし、妻も娘も本当にいい」という言葉に救われ、車を後にした。

エチオピアの子どもたち―小学校を訪れて

ジジガの町から車で30分ほどのコミュニティーにある小学校を訪れた。WFPが支援している学校給食(お粥のようなものを毎朝提供している)を子どもたちが喜んで食べている姿を写真にとり、ドナーである各国政府のためにストーリーを書くためだ。ドナーは自分たちのインパクトを見られるこのようなお話が大好きである。

学校につくと、寄ってきた子どもたちに囲まれた。私はVIPとして扱われ、職員たちは私が写真をとるための指示をすると、子どもたち大声でここにいけ、笑って、などと指示を出す。その指示に従って動くけなげな子どもたちの姿に涙が出た。私に無邪気によってきて、「ハロー」と英語で一生懸命話そうとする姿。

このような子どもたちの姿に私の内からこみ上げてきたのは、私はあなたと何も変わらないのよ、ということだった。私がVIPのように扱われることが申し訳なかった。まったく怖がらず、シャイでもなく、よってくる子どもたち。中には私の手に触ろうとする子どもたちもいた。私はその小さな手を握り返した。すると本当に嬉しそうに笑うのだ。

あなたたちとこうして偉そうにしている私は何も変わらないのよ。私は偶然日本という豊かな国に生まれ、ある程度豊かな両親の元に生まれ、教育を受け、このように仕事をしている。でも、これは単に偶然に過ぎないのよ。と叫びたかった。

救いだったのは、エチオピアは他のアフリカの国々よりも就学率が高いこと。政府が力を入れている。そして英語を小学生のころから学んでいること。教育は必ず貧困脱出につながる。そして英語も貧困から抜け出す鍵になる。

2012年1月31日 (火)

ジジガ、ムスリムの土地―ムスリム版ちょい悪おやじとの会話

 Jijigaはソマリ人の土地である。かつて、ソマリ人の土地はかつて一緒だったのに、植民地時代にソマリア、エチオピア、ケニア、ディブチに分けられてしまった。だから、今ソマリ人はこれらの国々に散在している。そして人々はそれへの不満をオープンに口にする。

 ソマリ人はムスリムだ。女性たちはみんなヘジャブかブルカを身に着けている。ヘジャブはとてもカラフルで、ソマリ人のすらっとした体をまとい、それが風にひらひらと動くのが美しい。学生のヘジャブは白色でこれがまた、黒い肌に合い、美しい。ベトナムのアオザイを思い起こさせる。学生はどの地でも純真な色をまとうのだなあ。。などと思う。そして気づいた。ソマリ人は美しい人が多い。特に女性。アディスの人たちよりもはるかに美しい。

 現地スタッフもほとんどがムスリム。WFPのサブオフィスに待機しているドライバー(ちなみに国連スタッフの移動はすべてドライバーとである。トヨタのLand Cruiserがもっとも多く、ボディーにUNと青文字で書かれている、あのおなじみの車に乗って移動するのだ)、も他のスタッフもみんなムスリムで、敷地内にあるテントのような祈りの場でランチタイムや夕方などひざまずいてお祈りをしている姿をよく見かけた。

 おもしろかったのはある現地スタッフとドライバーとお昼と食べたときに、ムスリムの話になったときのこと。私のことをあれこれ面倒見てくれたスタッフで、名はカシムという。仲良くなっていたので、ここぞとばかりに常日頃から疑問に思っていたことを聞いてみた。(ちなみにこの現地スタッフは「ジジガのちょい悪おやじムスリム」と私が愛情を込めてかげで呼んでい人。お調子もので、私が頼むことは「はいはい」とすべてやってくれる。男度を見せたいみたいだ。

 私は好奇心が強く、何でも聞いてしまう癖があるので「今何人奥さんいるの?」と聞いてしまった。「今は一人、一人」と彼は笑う。しかし、だ。なんとこの人、7人も子どもがいるが、また近々結婚する計画だ、と言う。イスラムでは男女が付き合う、というのはできない、結婚するしかないのだという。。「それってどうなの?何で男性だけが何人も奥さんを持てて、何で女性はだめなの?」するとこのちょい悪おやじムスリムはしまった、という顔を一瞬したが、もっともらしい顔つきで「女性が何人も夫を持ったら、子どもの父親が誰かわからなくなる」。

 ちなみに、このちょい悪おやじムスリムの姿はブルーのシャツにグレーのパンツをおしゃれ。そしてなんと、アイフォンをもっている!まさか、こんな土地でアイフォンにお目にかかろうかとは。。。これまたびっくり。

 このお昼の後にどうしてもあげたいものがある、と言って彼の家に寄って持ってきてくれたのは「イスラムと女性」というもっともらしい名がついたCDロム。ムスリムの慣習などを説明したものだそうで、これを聞くとムスリムのことがきちんと理解できる、という。多くの外国人がムスリムに関して誤解をしている、と言い、これを見て、誤解を解いてもらいたのだそうだ。

 ローマに帰ったらゆっくり見てみよう。私の多妻制に対する「誤解」が解けるか楽しみである。

アディスから東へ620キロ、ジジガという町

  24日から5日間、難民キャンプや小学校など、WFPの食糧配給が行われている現場(フィールド)で仕事をするために小さな現地オフィス(サブオフィス)があるJJijigaという町に滞在した。アディスからは東に620キロ、飛行機で2時間のところにある人口約10万の町だ。

着陸してみると、空港らしいものはなく、ただただ広大な、そして乾燥した土地が広がるだけだった。町の中心部でも人々はラクダやヤギに荷物を乗せて時に歩いている。初めはどんな貧しい地域かと思ったが、慣れてくると、その第一印象がすっかり変わるから不思議だ。それなりに町らしいじゃない、と。道路が建設されていたり、新しい建物が建設されていたり、かなりのペースで発展をしていることがわかる。けれど、信号がひとつもないことにはびっくり!

この町はアディスよりは低いが、それでも1600メートルの高地にあり、乾燥し、砂埃が舞う。一日いると顔や耳の中が砂で汚れているのがわかる。乾燥というより、干上がってる、といったほうが正しいかもしれない。気候変動の影響で、雨らしい雨が降っていないという。そしてこれこそが、この地域での飢餓の原因である。

この町に来る前、何せ初めてのアフリカ、エチオピア、そしてエチオピアからかなり遠い町ということで、実はマラリアとか下痢がとても心配で、かなり緊張していていて、マラリアの薬を指示通りに前日に飲み始めていた。そしてあらゆる薬を持ってきていた。しかし、高地であり、乾季ということもあって、こちらのスタッフに聞いても「マラリア?蚊?今はいないよ」と一笑されてしまった。心配のあまり前日に薬を飲んだ私がばかみたい。。。。物事・事情、そして言語、つまり、「知らない」ということは恐怖を生む。現場は行ってみると、想像していたよりも案外安全であったりするようだ。知ることの大切さを学ぶ。

2012年1月26日 (木)

書きたい!という衝動@アフリカ

アフリカに来て、「書きたい」という衝動に駆られた。ローマではほとんど感じなくなっている、久しぶりの感覚。ローマはローマで何も変わらずで、正直、書きたいと思うことがほとんどなくなった。

ここアフリカはもちろん初めての土地ということもあるが、問題も山積で、書きたい!!という思いに駆られている。しかし、ネットアクセスがあまりなく、仕事できているため、自由な時間もなく、少しずつ書きためたものを(それも、かなりつれづれなるままに書いたものがほとんど。。)、少しずつ出していきたいと思う。

ああ、なんという地だろうか、アフリカは!

Letter from Nairobi

Expatsについて

ナイロビでいろいろ考えた。中でも何度も何度も思い出せられたのが、あれほど遠い過去のことかと忘れかけていた植民地という言葉。

なぜなら、Expatsの存在があまりにも大きいからだろう。ちょっと高めのおしゃれなカフェやレストラン、ホテルは白人の世界。我が者顔だ。その彼らにサーブするのはケニア人である。

私の友人は(とてもリベラル)、警備が24時間いて(2人が交代)、広い庭を整備するガーデナーも、メイドもいる。そしてこれは普通だ。かと思うと、彼のドライバーはスラムのようなところに住んでいる。上流はExpatsとほんの一握りの黒人で、中流がインド人(かつて鉄道建設の労働者や商業のために連れれこられたらしい)、そして下流が黒人だ。

ケニア人はおとなしく、従順で、いやな顔ひとつせず、ひたすらいわれたことをする。これは、植民地時代に培われた人格なのだろうか。それとも、もともとこうなのだろうか。

Letter from Nairobi

ナイロビで感じたこと。

赤い土にみずみずしい緑があふれる都市。かつてあったコーヒープランテーションの名残をあちこちに見る。それがナイロビ。こんなに美しいとは。想像以上だった。朝の空気の何とすがすがしいこと。夜になるとすーっと空気が冷え、それが夜中中続く。朝、鳥のさえずりとともに目が覚める。少し湿った空気。少しずつ温度が上がっていく。そして日中にはかなり熱くなる。けれども、湿気がないので、さらっとしていて心地いい。まさに、「愛と追憶の日々」の世界。

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